maron-maron-chan’s blog

令和元年に思うこと…それは昭和時代に生きた複雑な幼少期。あの頃はおかしかった⁈

母の波瀾万丈な人生

簡単に書きます。

日本語が出来ない母は仕事に行けませんでした。父だけの収入が頼りでしたが、父はお金を大事にしません。生活費を渡して、残りはパチンコへ。

やっとのこと、私が中学生の頃、母はファミレスの皿洗いを始めました。時間帯は夕方から夜にかけて。私が高校生になってもそのパートは続きました。思春期の私にとって母不在は都合よかったですが、夕飯が冷凍食品だったりしました。

おまけに母のひどい更年期がずっと続き、家の事は長女の私へと負担がかかってきました。


しばらくして突然!自分の店を持ちました。韓国のスナックのお店です。お金の経緯は詳しくわかりませんが、誰かが母に惚れ込んで融資してくれたそうです。スナックのママとしてお店に立ち、あの時代は大繁盛!あっという間に貯金が出来たそうです。

ちなみに父には内緒でした。しかし、いずれ父に店がバレてしまいます。暴力振るう父から救ってくれたのは、お店の常連客でした。母に惚れて助けてくれました。マンションを与えて避難所も作ってくれました。しかし、またまた父にバレます。警察沙汰の喧嘩になり、最後は貯金500万渡して離婚成立しました。それと同時に店を畳みました。


そんな母、今はとても元気なんです。

趣味は多分…パチンコです(笑)



近所の人達

さて、都営団地には同じ小学校に通う人もたくさん住んでました。

みんな、人生いろいろでした。


Aくん。一人っ子でした。成績は下の方でした。不良グループだけど不良になりきってないような子でした。私が大人になってから、実は養子だったと聞かされました。それにしてもAくんとお母さんはウリ二つのソックリでした。


BくんとCくん。兄弟です。Bくんはお兄さん、Cくんは私と同い年。中学生になったBくんと鬼ごっこして2人きりになった時、後ろから抱きつかれました。そして体をベタベタ触られたような…。小学生だった私はそれがなんの意図があったのか理解しようともせず、多分されるがまま⁈  でもそれ以降、一緒に遊ぶ事がなくなりました。


DちゃんとEちゃん。姉妹です。体つきも性格も違う2人で、Eちゃんは噛み付くのが癖になってました。私の母は噛み付かれたのを根に持ち、ずっと嫌っていました。


同じ団地に住んでても中学生になると交流がなくなりました。私が短大入学を控えた春、両親の離婚が成立したため、これまた突然に引っ越しました。団地とサヨナラしたんです。


最近グーグルマップでその団地を見ました。あの昭和時代の面影など全くなかったです。何も変わってないのに、その団地周辺は平和そうでした。前に記した変質者なんてもういないと思います。そんな平和な団地で小学校時代を過ごしたかったです。

母と父について

ここで日本人の父と韓国人の母について少し話します。

会話は主に韓国語。だから両親がケンカする時は必ず韓国語。なぜなら子供に聞かれないよう、父が汚い言葉を使ってたようです。


そうなんです…うちの両親はいつもケンカしてました。一歩間違えれば母は殺されるんじゃかいか、と思うほどの激しいケンカでした。包丁を持って母を追いかけ回した事もあります。私を含め子供たちはどうする事も出来ず、泣きながらその光景を見つめてました。


でも父は子供たちには優しい時もありました。そんな父とは20年以上会ってません。

父と母の間には、山あり谷ありの人生があり、なんだかんだで母が貯金と引き換えに離婚にこじつけました。貯金は500万と聞いています。


そんな父はもう85歳ぐらいでしょうか。会いに行こうと思えば高速乗って行ける距離ですが…。特に会う理由もなく、現在に至ります。

今、父はどう思ってるのでしょうか…特に思う事もないと思いますが。

私の小学校時代

実のところ、あまり記憶がない。

おそらく母が日本語を話せなかった為、私は言葉が覚えるのが大変遅く…それに伴い知恵がつくのも遅かった。

(でも勉強は普通にでき、普通の偏差値の高校に行き、短大にも行きました)


5年、6年の学校生活が充実していました。夢に出てきたあの子もその時の同じクラスの1人です。

私は女子ですが、サッカー部に入部。スポーツ大好き人間です!


住んでいたのは都営団地…といっても、しっかりとエレベーターがついてます。周囲も団地だらけ。そして、変な男の人もたくさん居ました。学校の帰り道などで追いかけられたり、触られたり、また風呂を覗き込まれてたりと、あの時代は色んなことが許されたのか⁈と思うほど、自分の思うまま欲のまま行動してた人が多かったような気がします。…私なんて目が開いてるか開いてないかの一重で可愛くないのに(笑)そんなこんなで小学生の時は自分を守るため、スカートは一切はかなかったです。

このブログを書くきっかけ。

あの子が夢に出てきた。

めちゃくちゃ笑わせてくれた。

私は純粋な心でその子に接して大笑いした。


目が覚めた時、思い出したのは

あの子って小学校でいじめられてたな〜

クラスのみんなから、そして担任も一緒に笑ってたな〜

その子のお母さんは黙っていたな〜

その光景を誰一人おかしいと思わなかった。

それが昭和時代だったから?


…と考えると、私の幼少期いろんな事がありました。ネットが普及してない昭和時代、令和元年ではあり得ない話なのか⁈それとも時代だからと言えないかも⁈


私自身、母は韓国人でした。父は日本人だけど戦争で韓国に行き、その土地で両親は見合い結婚。2人で日本に来ました。なので両親の会話は韓国語。困ったのは、母は日本語を覚えるきっかけがなかったこと、字を読めないこと。


思い出せば、いじめられてたあの子のお母さんもアジア系のお母さんで日本語が得意ではありませんでした。

そしてよく思い出せば、住んでいた団地のあちこちは韓国人や中国人のお母さんが結構いました。場所は東京の端っこです。きっと我が家みたいに戦争が絡んで、女性はなにかしらの理由で日本に来た方が多かった⁈ということでしょうか…。